詠春拳教室             エブマス名古屋/三重

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ブログ/トピックス

11 Sep 2021

自分を表現すること

自己表現が重要だ。自分に満足している人間だけが孤立することができる。たいていの人は大衆に従い、他人の真似をするのである。

あなたはただ人の真似をするのではなく、自分が考えていることの重要性を伝える努力をしなければならない。

神秘的でもなく、ざっくばらんとして素朴であること。こうして本当の自分を率直に出せば、真の人間関係が築かれるのだ。

自己を「表現」していない時、人は自由ではない。すると人は葛藤を始め、その葛藤が整然とした行動パターンを生み出す。そしてまもなく、あるがままの現実に対応するのではなく、単なる反応として整然とした行動パターンを繰り返すようになる。

誠実に自分を表現して、自分に嘘をつかないこと。友よ、それを実行するとなると非常に難しい。

自己を表現すること、真の武術家は、それを自然に行動にだせるのだ。

12 Aug 2021

生きる

生の意味について考えてみます。

人はどのようにしてそのような生を経験するのか。一瞬一瞬の経験を享受するためには、まず自意識の束縛から自らを解放しなくてはなりません。自意識からの解放、すなわちエゴを解き放つことにあるといいます。そして、代わりに、これ以上小さくできない「真の」自分そのものが現れるまで「自分」の表層を少しずつはぎ取る、厳格な自己診断のプロセスが必要とあります。

難しく聞こえますね。

でも実は、そんなに難しくないと私は思っています。

人間としてもっともっと単純になっていけばいい。自己を探究する(自分を見つめ直す)、と疑問が蓄積される。するとハッキリとそれは、単純性の問題だと理解されてくる。(そう理解しない方もいるでしょうが)人間が克服しなくてはいけないことは、意識、即ち自分自身についての意識、求めているものが何であれそれに関する認識、それを(何であれ)追求し、常に自問自答すること。これは何だ?本当なのか?本当でないのか。本気なのか?それを一度見つけ出せばいいんです。

意識と認識の違いは、何でしょうか。

意識とは、物事や対象に気が付き、気にかけているときに使う言葉です。

認識は、物事を知り、意味や本質、意義をはっきりと理解することです。

学業や仕事は別ですが、普段の生活、社会や世のあらましについて意識はしているが認識は、あまりされていない方が多いのではないでしょうか。

生は人生が我々の中を通っているときに存在する。生はその流れを邪魔されない。それは、生きている者が生を自覚していないからであり、この中に生が、生きている人生がある。言い換えれば、単に生が自分を流れていくようにする、すべての経験と共にということになるでしょうか。

生きる(人生)とは、事実を経験し、意識し認識すること、武術を習得することもまさにそれの繰り返しであります。

最後に著名なオランダ人神知学者ヨハネス·ヤコブス·ファン·デル·レゥ(1893~1934)の言葉

「生の意味は解決すべき問題ではなく、経験すべき事実である」

ではまた👋






22 May 2021
鳥瞰図
鳥瞰図

鳥瞰図的に世の中を見る

「世の中変わってしまった」「行きにくい世の中だ」とSNSに書き込んだり、悩んでいる人がいます。

鳥瞰図的に世の中(街)を見てみると、何が変わった?ん~変わった所と言えば「新しいビルが立った」とか「新しい道ができてる」ぐらいでしょうか。

世の中には、表と裏があり、しいて言えば人間の造ったものには必ず表と裏があります。

山や海に行ってお日様の日を浴びれば眩しく暖かい、新緑は眼に優しく季節ごとに咲く花は、心を和ませてくれる。風が優しく頬を撫でてくれる。鳥が飛び、蝶がひらひらと目の前を通りすぎる。

自然は、何も変わってないことに気づく。

宇宙、地球そして自然から見ればちっぽけな存在の人間、その人間が生き、生かされるためのシステム。

今の世の中が大変そうにみえるのは人間が造りあげた社会システムを悪党が百鬼夜行し、意図的に変えようとしていること。

この悪党共に操作され、右往左往する人は精神性が低いと思わざるをえない。

精神性が高い人は、騙されない。

日本人は、元来精神性が高い民族、何故なら日本人は、自然を神として崇めてきたから。

ショッピングやアミューズメントパークに行くことで得られるのは、快楽であり幸福ではない。

不安な時や辛い時は、自然と一体になるといい真の幸福とは、身体が喜ぶことにある。

しかし、幸福感を一時的に得ても不安が解消されるわけでない。

それでも、前進しなければならない希望を持って、我々のお爺ちゃんお婆ちゃん、ご先祖さまがそうしてきたから…

だから今、私達がここにいる。

私の五感と身体が喜ぶから武術の修行を続ける。

それが詠春拳。

今という時をよく理解し生きるためには、昨日という時を全て捨てなければならない。新たな経験を獲得する度、ことごとく捨ててゆかねばならない─ありのままの現状をありのままに受け取れる気づきの状態を維持するのだ。

ブルース・リー

どうぞ皆さまお体をお大事にしてください。





10 Apr 2021
木の葉
木の葉

無為

無為とは何か?文字的には「何も為さない」と表し、「無」は、~と違うとか、~ではないという意味であり、「為」は、活動、行動、努力、努める、強いる、働くといった意味があります。

よって「無為」とは、まったく何もしないという意味ではなく、不自然な行為や人工的作為はしない、ということです。

最も大切なのは、何があっても努めて行わないこと。

「無為」は、制御するものが心であり、精神、もしくは心の活動を意味している。


優れた武術家は、何の抵抗もなく心を解放して相手に反応し、しなやかな動きがとれる、忘我の境地に達し、相手の動きに合わせることを学ぶ。

思考をすると動きが乱れ、即座に撃ち込まれてしまう。

したがって、すべての動きは出そうと意図しないで出されなければならない。

そうした無意識で自然な動きは、我々はいつも目にしています。

木の葉が風に揺れるとき、木の葉はただ風に反応しているだけである。同じことが、水上のボートにもいえる。ボートは、波の微かな変調にも即座に反応する。

こうした間髪を入れない状態は、「無為」の極意。

これは、どちらか一方向に傾いたり、極端に走ったりしない高度な精神のバランスをもたらす。

感情的、精神的に偏らずバランスのとれた状態は、陰陽の基本的な法則です。

力に対抗せず、バネのように柔軟で対応はするが敵の強さに対抗することはない。相手のテクニックを自分のテクニックとし、時に応じて形を創る。


それが、私達が日々研磨する詠春拳です。



20 Dec 2020

変化を伴う変化は変化のない状態である

こんにちは。

この言葉は、私の好きな格言のひとつです。

Martial Artistとして究極の格言だと思えるからです。

ある達人の言葉を引用して説明したいと思います。

我々の体、内的環境は「変化のない変化」の状態にあることが正しい。この格言は、陰陽の原理、即ち明らかに対立するものの相互依存を、我々の肉体が生存していく必須条件として強調するのに役立つ。

*我々の身体を悪い菌や悪いウイルスによる攻撃や病気から初期の段階で守るのが自然免疫ですが、常在菌や常在ウイルスにより守られているのも事実ですね。

しかし、我々の体は、宇宙の盛衰を統制する自然法則を小規模に反映しているに過ぎず、我々は内部世界(身体の中の環境)のならわしを見ることなく外部世界(社会全体やそのことわり)を理解する事が可能となる。

内部世界のならわし(肉体の内的環境)を見るとき、変化が絶対的な力であることを観察せずにはいられない。血中気体、ホルモンレベル、電解質レベル、流量レベル、pHバランス血中糖度及びその他の複雑な要因は、常に変化していて、身体の内的バランスと存在を保持するため、人生の変遷に適応している。

そのような器官の動的な状況はさらに、感情、衝動、幸福感、及び精神的見通しについて絶えることのない変化の結果を生む。この内部変化の現象は、より大きな宇宙的外部の反映に過ぎない。

*ここで使われている宇宙とは、地球外の宇宙ではなくて時間空間内に秩序をもって存在する「こと」や「もの」事を言っています。

万物は流転する。何も永続しない。

外的宇宙は、我々の身体を支配しているものと同じ法則によって活動している。

この一定した流動を観察する事によって、我々は我々を取り巻く世界の真の性質、即ちならわしをより良く理解する事ができるようになる。

我々はこの世界に置かれたのではなく、単にこの世界から育ってきたのである。

我々が自分たちの行動を分析するために立ち止まると「精神的停止」と呼ぶ否定的な状況が発生する。息をするたびに、呼吸器官や中枢神経器官の動きを考えて立ち止まる人はいないだろう。しかし、機械的な方法で慣れ親しんでいるより義務的なこと、例えば編み物やネクタイの結び方を分析しようと立ち止まる場合でさえ、我々は思考の迷路に迷い込み、その結果最も単純なことさえ行うことができなくなる。

「一つの腕の使用で頭が立ち止まらず、次から次へと道具を動かすという理由でのみ、すべての腕が究極の効率性を発揮する」

プロセスを考えることなく、関連しない体の部分を同時に動かすことが、どうしてできるのか?という問に達人の答えは、このようなプロセスは意識的な思考ではなく、自治的なプロセスによって支配されている、となるのである。

達人は、自然の摂理が君主制ではなく、民主制のプロセスにより類似していると考えた。

君主制では、明らかに一つの政治的焦点があり、その構成民に何をすべきかを述べる一つの中心的権威となっている。しかし、民主制では、生命器官と非常に類似したものが存在する。それは、自治的あるいは自律的なプロセスであらゆる種類の異なる部分が独立して発達し続け、調和によって共に機能する。

*君主制は、全体主義や共産主義(独裁国家)民主制は、民主主義や自由主義と考えると解りやすいかもしれません。

かなり難しい話になりました。私もこの事を理解して説明できるようになったのはここ数年だと認識しています。

最後にこの言葉で締めくくりたいと思います。

「偉大な道はどこでも流れている。すべての物は道から生まれ、道は物を生かす。道は創造物の中に流れ込むが、何も主張しない。無限の世界を育むが、世界にすがりつかない。すべての物と混じり合い、その中心に隠されるので、謙虚と呼ばれる。すべての物はその中に消えいき、それのみで持続するので、偉大と呼ばれる。偉大さに気づかない、従って真に偉大である。」

老子

ではまた👋✨

10 Oct 2020

【修練の三段階】前編

武術も含めて、努力する事によって得られる知識や熟練は、三つの段階で構成され、これを「修練の三段階」と呼んでいたという話です。

第一段階は原始的なもので、闘い方について何も知らない白紙の状態である。これは、闘い方において、何が良くて何が悪いのかもわからずただ本能的にブロックしたり、殴ったりするだけの状態を指す。もちろん、それは科学的なものではないが、無辜なる自分自身の現れであり、その攻撃や防御は流動的である。即ち、自分の置かれた状況に慣れていない無知の段階である。その反応は、自然で正直なものと言える。しかし、必要な知識や調整がないために、ほとんどが不適切なものである。それでも、さらに鍛錬し集中する事によって、すぐ次の段階に入ることができる。

第二段階は、トレーニングで技を磨き上げる。ここでは、防御方法、攻撃方法、スタンス、呼吸法、考え方などが教え込まれる。明らかに闘いの科学が修得できるのだが、不幸にもありのままの自分や自由の感覚が失われ、自分自身の動きとはいえなくなってしまう。その時その時の判断や状況分析に心が釘づけとなりがちで、悪いことに「考え過ぎ」ともいえる現実離れしたものになる。達人が「技の段階」ともいっている修得の段階は、進歩に向かうために必要なステップである。どう動くかを教わることで、その人独自のアプローチに制約が生じるといった制限はあるものの、修練で身につけた反応と同様、それは必要悪であり、潜在意識の創造力に富んだ部分で、より直観的な知識をうまく修得し活かして行くために本当の根を植える段階でもある。だが、習っている当事者にはそれがわからない。こうするのがよいと教えられた通りにやることが得意になるだけである。

つづく

23 Aug 2020

その意思は本当にあなたの意思ですか?

毎日見聞きするニュースは、我々の気持ちを暗くさせるものばかりです。

でも、日々の忙しい暮らしの中で人と人とのふれあいの中で気持ちが明るくなったり幸せになったりする事は、しょっちゅうあります。

「これって、本当かな?」疑問を持ち自分で調べることです。

その行動、それはあなたの意思ですか?

https://jimakudaio.com/yt?v=HIuhjV8CXhs&lang=ja


14 Aug 2020

これから何かやろうとしている人への提言

これから何かをやろうと思っている人がこれを読んでいるなら 私はひとつアドバイスをしたい。

貴方が何かを身につけようとする時、それはダンスだろうと武術だろうと、必ず指導者を選択しなければならない。貴方が本気なら指導者は、自分にとって厳しいと思える指導者を選択しなければならない。何故なら優しい指導者は、貴方の事などどうでもいいからだ。貴方は最初心地よいかもしれないが、そういう指導者は、貴方が毎週練習に来てくれて毎月月謝を収め、練習生が増え懐が増えればそれでいいのだ。厳しい指導者は、本当に練習に来る人を上達させてあげたいと思い指導するから自然と厳しくなる。貴方がこの先生は、厳しいから辛いと思い始め教室から足がとおのき教室を辞めたとしたら、貴方の身につけたいという思いがたんなる興味本意に過ぎなかったのだと悟事だ。

何かを身につけるということは簡単ではない、それを身体にmemoryさせなければならない。人はスマホではない、アプリをインストールすればそれがやれる訳ではない。

この事をしっかりと認識して行動を起こしてもらいたいと、私は願います。

頑張ってください。





11 Aug 2020

無心【後編】

「無心」とは、木を見るとき、それぞれの葉ではなく全体の素晴らしさを見るように、一部分を見るのではなく、全体を見ることなのである。
集中してひとつの事にこだわるのではなく、現実に起こっているすべてを静観するということである。
「無心」の状態は、どこにも存在しないから、心のどこにでも現れることができる。

グンフーの使い手は、どんな事に関わっていても、それにこだわらず平静を保つことができる心を持っている。
その思考の流れは、いつでも流れ出せる状態で池に水を入れるようなものだ。
水は自由であるがために限りない力を発揮できるし、形が無いことから何事にもオープンでありえる。

達人は記す。

武術家にとって致命的なのは、精神が停止することといわれる。
敵と命懸けで対峠するとき、心は遭遇する対象に釘付けとなるのが普通である。
日々の暮らしにおける流動的な精神状態が停止し、こだわりや障害のない流れが不可能になる。ついには自分をコントロールできなくなり、体が本来の動きをしなくなってしまう。すなわち、心に何かを持っていると、それに心を奪われて何かをする時間がなくなるが、既にある思いを取り除こうとすると別の何かを再び取り入れることができるようになる。

究極的には、目的を持たぬ状態にならねばならない。目的を持たないという事は、空白を目的とすることであり、単に何もないということではない。
その本質は、自然形のないもので、目的を入れられるものではない。
そこで何かに執着すると、精神エネルギーはバランスを失い、自然な活動は束縛され、流れることができなくなる。
しかし、流動的な状態、心が空の状態、もしくは単に平常心といわれる、目的を持たない状態の場合、精神はどこにも留まらない。一方向に傾くこともなく、物事を超越し、環境の変化に空の心で臨み、まったく痕跡を残さない。

これらのことは、武術に関することだけではなく、我々の日々の暮らしの中においても言いえる大切な教訓だといえます。

ではまた👋✨
19 Jul 2020

エブマス三重開校

皆様 日頃からエブマスJapan及びエブマス各支部をご愛顧いただき真にありがとうございます。

この度 エブマスJapanはエブマス三重を開校する事になりました。

開校日:10月2日(金)

場所:桑名市スマイルスタジオ新西方本館Bスタジオ

 練習日時:毎週(金)19:30~21:30

指導:エブマス名古屋インストラクター草彅 豊 入会及び月謝:エブマス名古屋と同じ

お問い合わせ:ebmasmie@gmail.com

https://jmty.jp/mie/les-spo/article-jpt4x

https://dojos.org/archives/16467

練習内容等は、エブマス名古屋HPでご確認ください。

三重県の皆様どうぞよろしくお願いいたします。





28 Jun 2020

無心【前編】

「無心」の概念は、あらゆる感情を欠いた空っぽの心であったり、単なる心の平和であったりするわけではない。

アラン·ワッツ(哲学者)が述べているように、「無心」とは、人の心を邪魔する邪念やエゴのない、心が自由で平和に機能する全体の姿を指す。ワッツが言っているのは、それぞれの内にある邪念やエゴによって心を乱されないよう、心をあるがままの状態にする事である。

達人は、何もとらえることはないがすべてを拒まず、映し出しはするが留めておかない、といったように心を鏡の状態にしている。

あるがままの思考でいる限り、追い払う努力はまったく要らない。努力が要らないということは、邪念の完全な消失ということになる。では、どのように邪念を追い払うのかといった疑問が浮かんでくる。

達人は言う。

意にそわない事も含めて次々と起こることすべてを受け入れることで、何も努力は要らない。「無心」とは、感情や感覚のない状態ではなく、こだわったり、拒絶したりすることのない状態である。それは、留まることを知らず絶え間なく流れている川のように、感情的な作用に対して心を動かされないことである。

これらの事は、練習の実体験からIntermediateクラスになると理解ができるでしょう。

【後編】につづく

19 Jun 2020

水の性質

水は地球の血液であり、脈を通じて流れる。従って、水は何か完全な機能を持つものといえる…。天と地に蓄積され、いろいろなものに蓄えられる。金や石の中に現れ、生物の中に凝縮される。それゆえ、水は精霊的なものということができる。このように、世界を改変していく知恵者にとって、解答は水に存在する。

管公

最高の美徳は水のようなもので、あらゆるもののためになり、人々が蔑む場所にも不平を言わずに進んでいく。しかし、道に近い性質である。

老子

深い言葉ですね。ではまた👋👋

31 May 2020

愛知県岡崎市に詠春拳教室

令和2年6月より詠春拳エブマス岡崎がスタートします。

詠春拳を習いたいけど名古屋までは、少し遠いとお考えの方、まずは体験入門からどうぞ。

エブマス岡崎https://jmty.jp/s/aichi/les-spo/article-hn98q

ホームページhttps://ebmasokazaki.simdif.com/



7 May 2020

ブルース・リーに学ぶ、成功と人生哲学

「何かに打ち込むこと、絶対的に打ち込むことは、人を前身させる。人生は永遠に進化し新しくなっていく道のりだから、終点や限界のない不屈の努力と実感のようなものだ」とブルース・リーは言っています。成功の鍵は、あらゆる作り物や偽物、そして不要な知識を捨て、自然界における暗黙の掟に従って、それらを自然の信頼できる知恵や感覚に置き換え、自然の道を理解し、それに従って生きることによって、知恵や精神的満足を得るところにある。ブルース・リーは老子を読み、次のような一節をよく理解していた。

「道」そのものは決して何もしないが、「道」を通じてすべてが行われる。権力を持った男女が、自分を「道」に集中できたなら、世界全体が自然の律動の中で自ずと変わっていくだろう。民衆は、調和のとれた素朴な日々の暮らしや無欲であることに満足するであろう。無欲であれば、すべてが平和となる。

我々が生きている間は、人間として充実していても、自分を理解しようとし、自分を発見し、自分をありのままに表現し、自分の可能性を最大限に引き出す義務がある。とブルース・リーは、考えていました。こうした進化の過程において、本当の進歩が可能となる。世界的に名声や成功の結果が出るわけではなく、それよりもっと大切な真実と心の平和という二つのものに導いてくれる。ブルース・リーは言います。

「真実は地図のどこにも記されていない」。あなたの真実は、私の真実とは違う。最初に、これが真実だと思うものがあっても、後になって新たな真実を見つければ、前のものは真実でないと言うことになる。しかし、こうして次第に真実へと近づいて行くものだ。

ブルース・リーが目的とした、質の高い人間の役割と義務は、真摯で正直な発展、そして個人や独自の可能性を実現する事にありました。自己実現を探索する旅の途中には、自分のイメージした実現とは反対の方向へ導く回り道が張り巡らされていることが多く、目的地に至るのは決して簡単なことではない。ブルース・リーは、晩年、自分を発見する過程で学んだ表現の手段として、次のようなエッセイを書き残しています。

真摯な個人的体験と熱心な学習を通して、最終的に理解したことは、最大の救済は自分を救うこと、というものだった。それは、自分を救えるのは自分だけであり、終わることなく与えられ続ける役割に対し、最善を尽くし、真心を込めて取り組んでいく、ということなのだ。私は、人生の中で沢山の事を行ってきた。私の歩んだ道のりと同様、自分のイメージの実現を自己実現に変え、プロパガンダや体系化された真実に盲目的に追従することなく、自己の無知を内面に探ることへと変えていった。

ブルース・リー

いかがでしたでしょうか?武術家として、そして何より人間としてブルース・リーに学ぶことは私自身、大変に多いのです。我々は、生まれ物心ついた頃から、何かに追従し、皆と同じことばかりしていたと思いませんか?同じ教育を受け、同じテレビを観て、メディアによるプロパガンダで、同じ考え方と価値観を植え付けられて自分を見失っている人が多い、かっては私もそうでした。自分自身を見失わず実りある人生を送りたいものです。

お時間があれば下にある動画ジッドウ·クリシュナムルティ「真の自由への道」もどうぞ。

ではまた😃👋


写真提供者:
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